undefined MIKEGRAPHY(三毛駆楽風慰) 彦根城紀行

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彦根城紀行

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桜にはまだ少しどころかだいぶ早いこの時期ではありますが、今日は彦根にきております。
今回の彦根訪問の目的は、勿論彦根城!なのではありますが、ちゃんとした理由がございまして。
彦根城は現在日本に4つだけ存在する国宝のうちのひとつでありますが、当然文化財でもあるために、日々修復と調査が行われているわけです。
その中で、今回は平成24年及び25年度の調査でそれまでは第一次資料でしかなかった、同じ彦根の、それも目と鼻の先にある、佐和山城の部材が使われたことの対しての物的な証拠が発見された、ということでその発掘調査の現地報告会的なものが開催されたために、それに参加してきたわけです。

彦根城は言わずと知れた井伊家の居城。
徳川家康は大阪城を包囲する城として彦根城の建築を命じたわけですが、とにかく急がないといけなかった。(おかげで井伊家だけじゃなく、なんたって藤堂高虎が忙しかったわけです)石垣の石を切り出しました、材木を調達しました、なんて絶対に間に合わない。
そこで近隣の城から部材を集めて組み直し、それで城を作ろうと考えた。
なんなら、どうせ佐和山城は関ヶ原の合戦で負けた石田三成の城なわけですから、いっそ壊してしまったほうがいい、くらいの勢いだったんでしょうね。
佐和山城は廃棄。
その部材を彦根城に使って城を建築した。
特に、佐和山城で使われていた石垣の石を移築して大手門の石垣としたあたりは、東軍の勝利を世に知らしめると同時に、大阪城への牽制にもなったことでしょう。
今でこそ石垣に樹木が茂ってよく見えませんが、当時の人々は佐和山から城が消えて、彦根山に城が出来、その入り口に佐和山城の石垣をみたことで、時代の流れを感じていたことでしょう。
そして、瓦などの部材は、本丸天守にあがる途中の石垣の中から裏込め石の部材の一部として利用されていたようです。
実際、今は石垣しかないところの下に、普通に紋入りの瓦が転がっていたりするわけです。当然持って帰ったら文化財保護法にひっかかります・(笑)でもそういうレベルのものがあちこちに点在していて、ゆえに普段は立ち入れない石垣の下とかにも今回は入れてしまいまして。そういうのもやはり、彦根市が主催した見学会だけのことはあるわけです。
やはり部材と年代によって石垣の積み方も全然違うし、なんなら石の切り出し方まで違うわけですよ。城の石垣と一口に言っても、全部が同じではない。特に彦根城は年代ごとぬ適宜修繕を行っているので、それこそ慶長年間の積み方から江戸中期、幕末、明治、大正、昭和、平成といろいろな石垣がみられて(現在はその石垣が積まれた当初の積み方で修理調査をしている、とのこと)本当に石垣の博物館、といったところなのです。
天秤櫓のところの石垣だって、半分は築城当時のもの、半分は幕末の修理のものですからね、それをただ石垣です、とみただけじゃつまらないし、みる意味もない。
違いがあるから面白いし、面白いから知りたくなる。
人の一生は勉強であるとは、そういうことなんだと思います。
だから人生はおもしろい、と。
そんなこんなで、本当に勉強になったし普段入れないところも歩けたし、それは同時に普段みることの出来ない景色を見られたわけですからね、本当に来てよかったです。
すっごい満足しました。
さて、明日はどうしようかな。
ちょっと行きたいところがあるのですが、んーどうしようか、一晩考えます。

明日もいい旅になりますように。
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あきよ

Author:あきよ
中世日本史研究家。
マスターズスイマー。
出会う人に笑顔と勇気と力を与える存在。

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