undefined MIKEGRAPHY(三毛駆楽風慰) ちょっと考えたこと

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ちょっと考えたこと

先週OAされたくりいむしちゅうさんが出演されてた信長からの手紙の特別番組をようやく昨日見たわけですが、かなり歴史初心者さん向けに噛み砕いた番組なってたな、というかんじでした。
実は昨年熊本に行ったときに、熊本県立美術館であの展示会を見てきたわけですけど(実は行くつもりは全くなかったんだけど、その前の日に福岡市博物館に行って偶然そのポスターを目にして即効行くのを決めたっていうね)誰も展示エリアにいなくて、あのOAでもやっていた信長直筆の手紙をがぶりつき、独り占め、ってか展示施設にどっぷり2時間、という状況で見てきたわけですけど。

あのOAの中で、信長が『公儀、と呼んでいたのは誰なのか』というクダリがありましたが、あれをみて『え?信長が当時公儀と呼んでいたのは当時の将軍、足利義昭しかいないじゃん』とか普通に思っちゃったわけですよ。
それと同時に、あれ?その知識ってどこで得たんだっけ?と(笑)
知識をどこで拾ってきたのか記憶にない。
多分、家にある信長に関する書籍のどこかに書いてあって、それで覚えてたんだろうけど、でも信長に『御逆心』を持った『公儀』と言ったらもう将軍一択だろ、と私なんかは思っちゃうんですけど、やっぱり歴史を教科書でしか習わない人っていういうことって思い浮かばないもんなんだなあ、と改めて思いました。

あと、信長が『猿』と呼んだ人物が実在した、という話もあれにはなかったけど、出てくるわけですけど、信長が猿、というえばやっぱり羽柴秀吉が出てくるわけですが、ではなぜ信長は秀吉を重視し、猿、と呼んだと言われているのか。
当時、猿、といえば忍者のこと。
つまり情報収集をする集団だったわけですけど、個人的に、秀吉はそういう集団を束ねるリーダー的な立場にあったのではないかと思うわけです。
昨年の『軍師官兵衛』でも出てきましたが、特に四方を敵に囲まれた信長にとっては情報収集とその分析こそが生き残る、勝ち上がる道だったわけです。それをもたらしていたのが秀吉だった。
だから信長はそういう実力を持つ秀吉を猿と呼び部下とした。
そしてその情報収集能力で、秀吉は後に光秀との決戦に山崎で勝利し、天下を取った。
まああくまで、個人的な見解ですが。

ではなぜ光秀は信長を討ったのか。
信長は光秀をとても信頼していた、にもかかわらず光秀は信長を討った。
信長が本能寺の変の後、歴史の表舞台から姿を消したのは確かですが、そもそも光秀が全てを計画したのは本当なのか、というのが根本的に真実なのか、とは思うわけです。
まあね、細川藤孝が関与していたのには間違いないんだろうなと思います。
実は歴史の糸を裏で引いていたのは、あの人だったんじゃないかな、と。
それを知ってたから秀吉も家康も細川家を長く重要なポストにつけておいたんじゃないかな、と。

全ては実は細川藤孝が握っている。
こうなってくるを彼を知る必要がある。

…こうやってどんどん本が増えていくんだな、と(笑)

本棚が足りない、というのは、OAを見て最後にたどり着いた結論なのでありましたとさ。
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Author:あきよ
中世日本史研究家。
マスターズスイマー。
出会う人に笑顔と勇気と力を与える存在。

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