undefined MIKEGRAPHY(三毛駆楽風慰) 信長の野望

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信長の野望

真夏の関西旅行の旅行記も終わらぬままでいるっていうのに、その後に行った名古屋紀行を書いてしまうわけですが。

実は9/22(日)に愛知に行ってきました。

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今年現在の愛知県小牧市に、織田信長が小牧城を築城してちょうど450年にあたります。
小牧山城、というと、信長が清須城から岐阜城に移るわずか数年しか使われなかった城、あるいは、その信長の死後勃発した『小牧長久手の戦い』で徳川家康が陣取った城、程度の認識しかみんななかっただろうし、無論私もなかったわけです。
ところが近年になり、調査が進むにつれ、小牧山城は美濃周辺で始めて石垣を積んで作った本格的な織豊時代初の山城であり、その後の近代築城に大きな影響を与えた城であること、また城づくりと同時に、城下町作りをすすめた始めての城であることがわかってきています。
それだけに、現地で調査をした人の報告を生で聴きたかったし、奈良大学の千田先生のお話も聞ける(先生は『信長の城』の筆者で、小牧山城の発掘調査にも関わっておられる)とあって、始発のTXに乗り、新幹線を乗り継いで、朝から小牧市に行ってきたわけです。

今までお城というと、もうかなりしっかり周囲も整備され保存調査も進んでいる場所であることが多かったのですが(例:国宝の姫路城や松本城など。同じ山城でも例えば春日山城址や竹田城址はかなり整備が進んでいる)小牧山城はようやくここ10年くらいで調査が進んだ程度の城であり、なおかつ天守のあった山頂には歴史博物館のハリボテの天守があるため(一番やっちゃいけないパターンね・笑)まだまだ整備も調査も進んでいない状況で。

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ただこうやって発掘調査の過程で石垣が出てきて、そこには裏込石がしっかりつんであって、試行錯誤で石垣を作ったわけではなく、ある程度しっかりしたルールに則っての作業であったことがわかって来ています。

また城下町には各職業ごとに街を通りで区切ってしっかり整備されており、中世のテクノロジーだけではなく、それを有効的に、尚且つ計画的に利用するという側面での整備がすすんでいたことがわかって来ています。

つまり小牧市は16世紀において、すでに小牧山城を中心として発展した惣構えの城塞都市であり、整備された信長の理想の都市だったわけです。

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信長は武力で次々に周囲の国を平定していきましたが、実際本当に信長は欲しかったものは、単にその土地・領土といことではなく、実はその土地土地にあるたくさんのテクノロジーだったのではないか、と実際に小牧に行ってみて感じました。

例えば、石垣はある程度のルールに則って積み上げられたものですが、その積み上げる技術を持っている人がいるからその土地が欲しかった。
小牧の城下町にも例えば鍛冶屋だったり染物屋だったり、とたくさんの技術者を集団で住まわせている。
無論多くの家臣を養うためには領地が必要であったことは当然なのですが、それよりももっと欲しかったのはそういった技術であり、その技術こそが武力に変わり国を治める力になり、日本を世界と対等に戦える強い国にする…つまり明治時代にあった『殖産興業・富国強兵』をこの時代に行おうとしたんじゃないかな、と。
『天下布武』とはつまり、武力をもって天下を治めることを宣言したわけではなく、そういう強い技術を持った国を武士が治める世の中にする、そういう平和的な側面があったのではないかと思うわけです。
でもそこまではある程度の武力が必要だ、と。

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明智光秀がそれまで治めていた土地を召し上げられ、石見を切り取って領地にしろといわれたことも、本能寺の変につながった一因である、という説がありますが、あれは、無論それを切り取るのは大変だったでしょうが、光秀の軍事能力と治世能力なら、うまく石見にある銀山を活用できるんじゃないか、たんに銀を掘り出すだけではなく、穴を掘る技術、それを支える道具を開発する技術、銀を精錬する技術などを大きく光秀ならば発展させられる、と信長は核心していたのではないかと思うんです。
いつか、家臣に与えるものは土地ではなくその技術から得たものを信長が吸い上げ、そこから与える、いわば今の会社の給与制度みたいなものをつくろうとしていたんじゃないだろうか、と。

それが信長が夢見ていたまちづくりであり、国づくりではなかったんだろうか…と考えたりしました。
信長が見ていたのは、武士が刀をおいた、その先の世界だったような気が、小牧に行ってみてしました。

小牧は信長の理想のモデルケースで、日本を統一した際には、そのモデルケースを各地で展開する。
当時各地方の方面遠征の司令官として任命されていた人物たちは、仮にその後信長が本当に政権をとったら、その方面の行政の最高司令官にそのままスライドさせる予定ではなかったのかな、とふと感じたりもしました。

信長が小牧にどんな夢を描いていたのか、本当にところはわかりませんが、それでも小牧が中世日本における城郭造りの大きなターニングポイントになったことだけは間違いないと思います。

今後、小牧市が、このような背景を踏まえてどんな城跡の整備発掘調査を進めていくのかを楽しみにしていこうと思っています。

できたらやっぱり発掘した石垣は見せられるような環境にしてほしいな。

あと、城郭部分だけは木を切って、近くを走る高速道路から、石垣と天守が見えたら、それだけできっとお客さんが小牧に来ると思うんです。
無論小牧山の保護は大事だし、それは住民の方と話あってきめるべきことでしょうが、県外の城好きとしてはそう感じるのでありました。

いずれにせよ、始めていった小牧山城は、まだまだ秘密がいっぱい隠されていそうで、今後の展開が楽しみであることだけはわかりました。

ああ、いい場所と巡りあったな、と実感。

そして、相変わらず信長さまが絡んでくると、天気がよくなるな、と実感。

この先書きますけど、関西遠征いって、信長様のお墓参りをした時だけ(多分2~3時間くらい…ももしかしたらないかもしれない)ものすごく天気がよかったんです。
その前に安土城いった時も、暑くてどうしようっていうくらい好天気でした。

ありがたい話です、本当に。

これも信長さまのパワーでしょうかね。

なんて思ってみたりして、ね。

でも行ってよかったです、本当に。
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テーマ : 国内旅行
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Author:あきよ
中世日本史研究家。
マスターズスイマー。
出会う人に笑顔と勇気と力を与える存在。

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